公共広報コミュニケーション研究会

【防災広報】矢守克也教授インタビュー前編「〈生活防災〉ふだん→まさかの視点篇」

公共広報コミュニケーション研究会とは?
公共から市民への広報〈今の時代に即した情報の受発信〉に関する研究と事例共有を関東中心300自治体へオンライン・メディア(メールマガジン)を通じて行っている研究会です。

公共広報コミュニケーション研究会(以下、リパルコ)では、近年、防災・災害対応における自治体の情報発信が、いよいよ重要性を増していることに着目し、昨年からはとくに「防災広報」というテーマに力を入れて取り組んでいます。
その一環として、昨年10月には4自治体からの事例発表を中心に、15自治体の参加によるオンライン・セミナー「災害多発+コロナ禍の時代における〈防災広報〉を考える」を開催しました。
 このセミナーで基調講演をいただいた京都大学防災研究所の矢守克也教授に、今回あらためてお話しをうかがう機会を得ました。「ふだんの暮らし」が防災・減災になる、一石二鳥の生活防災(増補版〈生活防災〉のすすめ・帯より)と、自治体の担当者として理解しておくことが重要なリスクの考え方について、最近の話題も交えて、くわしくお聞きすることが出来ました。
このインタビューを「〈生活防災〉ふだん→まさかの視点篇」と、「災害リスクと情報篇」と2号に分けてお届け致します。
 
話し手:京都大学防災研究所 巨大災害研究センター 矢守 克也 教授(以下略称:Y)
聞き手:公共広報コミュニケーション研究会 主任研究員 佐藤 幸俊(以下略称:S)

「土手の花見」という神話

S:矢守先生とは、昨年10月のセミナー(2022年10月7日に開催した公共広報コミュニケーション研究会セミナー・「災害多発+コロナ禍」の時代における〈防災広報〉を考える)以来となりますが、いっそうお忙しくなられたご様子ですね。
Y:はいお久しぶりです。新年度になってから、信じられないほど仕事が押し寄せてきまして…ご不便おかけして申し訳ありません。
S:とんでもありません。貴重なお時間、誠にありがとうございます。さっそくですが、私はこれまで、先生の著書あるいはお話しをうかがう中で、いくつもの「目からウロコ」があります。今日はそのところを直にお訊ねしたいと楽しみにしております。その中でも印象深いのが「土手の花見」の話なんですが、 
Y:はい。川の土手というものは、冬の間に霜や氷で緩みます。夏前には梅雨がやってきて、決壊が懸念される。この間の春に花見をすることで、多くの人による踏み固めや危険箇所の発見という、いわばメンテナンスが、ごく自然にしかも楽しみながら行えるという話ですね。
S:防災というと漠然とイベント的なイメージが強かったのですが、そうではなくて、日常継続的な「社会的な諸活動の一つ」なんだ、という見方が新鮮に感じられました。
Y:災害自体がそう頻繁に起こることじゃありませんので、その意味で災害は非日常的な出来事です。その非日常〈まさか〉と私達の日常である〈ふだん〉とを、どうやってスムーズに繋いでおくかということが、一番の基本姿勢としては大事かなと思っています。このところ耳にする「フェーズフリー」という言葉も、趣旨は同じと言えます。
S:それをどうやって多くの方に伝えるかと考えたときに、「土手の花見」というエピソードを一つの典型例として紹介されたということなんですね。
Y:もちろんこれは一つの印象的なエピソードであって、みんながそうすればいいという意味ではありません。私にとっての、あるいは私のコミュニティもしくは私の会社にとっての「土手の花見」は何だろうかというふうに考えを進めていただくことが大事かなと思います。
 例えば、企業であればBCP(Business Continuity Plan。事業継続計画。主に非常事態への対応を想定)で、それこそ〈ふだん〉から、原材料の発注先や製品のマーケットを多重化させておくということは、通常のビジネス展開にとっても重要なことですし、〈まさか〉の事態においては、冗長性-Redundancy(リダンダンシー)の確保という観点が、いざという時の対応にも役立つということになると思います。
 またコミュニティにとっては、を考えると、非常によく引き合いに出されますが、2004年の新潟県中越地震の中山間地の例があります。中山間地というのは、「孤立」や「情報途絶」「河道閉塞」といった防災上の課題がクローズアップされがちですが、じつは日常生活自体が、自立独立してコミュニティを運営するというスタイルなので、周囲で「孤立集落がある」と叫んでいるほどは、当事者の方は孤立しているとは思っていなかったという一面もあったわけです。
 水の確保には井戸もあるし、元々食料を大雪に備えて蓄えておくというカルチャーもある。自分たち自身で重機を動かせる人が何人も集落にいるし、そもそも重機が集落にある。そういった都市部のコミュニティとはだいぶ異なる〈ふだん〉の姿が、あの中越地震という〈まさか〉のときにも力を発揮したっていうような逸話が、コミュニティにおける「土手の花見」を考える上で参考になるのかなと思います。

〈最適化防災〉の限界

S:今のお話しの延長線上にあると思うのですが、防災については、理想的なゴール地点(最適化)を目指す、メディアとかでもそういった文脈で語られることがほとんどだと思うんですが、そこのいわばハードルを高く設定し過ぎることで、「そんなこと無理」と住民にあきらめの態度すら生じさせかねないという弊害を懸念されておられますね。
Y:そうですね。私が「〈生活防災の〉すすめ」に書いたのは、防災はもちろん生活上の重要な要素・側面ではあるが、それは他の多くの要素・側面の1つに過ぎない。具体的には、経済(家計)、教育(子育て)、環境(ゴミ出し)、福祉(介護)、娯楽(花見)といった種々の要素・側面が混然一体となった生活まるごとの中に溶け込んでいる。そのため防災と他の生活領域、他の行政分野との間のトレード・オフ(コンフリクト)が、最大の壁になっている、ということでした。
 この本を書いてから15年ぐらい経って、それをある意味で立証してくれるような、新しいトレンドもちょっとずつ出てきています。その辺りで少しお話させていただきますと、今一番ホットな話題は、防災と福祉との溶け合いかと思います。防災と福祉という二つの柱を立てたときに、高齢者をはじめとする要支援者の個別避難計画をちゃんと立てましょうとか、リストを作りましょうとか、そういった一昔前の言い方をするならば、災害弱者をどうするのか、というのが、ずっと焦点になっていたポイントだと思うんですね。ただそのことの問題の立て方が変化しつつあるということが大事だと思います。
例えば避難を考えたとき、要支援者の方への対応というのは、支援の必要のない方とは別にして考えられていたわけです。多くの住民の避難がスムーズに進んでも、足が弱っている方とか障害をお持ちの方、あるいは日本語の情報がストレートに伝わっていかない外国人の方、そうした方々の避難には難しさが伴う、それが課題視されていたわけです。
 例えば、昔は、高齢化は過疎化とセットで語られることが多かったと思うのですが、今は、それだけではなく都市部でもエアポケット的に、高齢化が非常に進んだところがある。建って50年経った団地とかそうですね。こういったところでは、住民票を作るとそのままイコール要支援者名簿になるみたいな地域があるわけです。
 濃い薄いの程度の差はありますけど、今から少なくとも半世紀ぐらいを見通したときには、日本社会全体が向かっているトレンドにおいては、防災の問題と高齢者の福祉の問題っていうのは、トレードオフだ、どっちかをやるためにどっちかが足かせになっているっていう捉え方ではもはやなくて、その高齢者問題に正面から向き合うことがそのままイコール、防災の最適化にも、もう直結しているっていうふうに世の中が変わってきているというふうに思います。
 実際、自治体とか集落とかで防災の活動をするという場に行くと、大抵の場合、社会福祉協議会の人とか、地元の高齢者福祉施設の施設長さんがそこにいたりとか、民生委員の人がいたりとか、役所でいうと防災部局の人っていうより、健康福祉部局の人がそこに座っているというシーンが多くなりました。
 もはや社会のニーズの側が、防災と他の行政分野のコンフリクトと言ってる場合ではなくなってきており、双方にとってある意味でウィンウィンになる、双方にとっての課題を解決するというふうになってきているように感じます。
S:今のお話伺って、先生が出演されているテレビ(NHK『明日をまもるナビ』)で紹介されていたのを思い出しました。高齢の方が、水難の際に避難所まで行けない状況を想定して、セカンドベストとしての自宅避難で、2階へ登る訓練をしてるっていう事例がありましたよね。テレビの中で高齢者の方が、「いや、そんなこと私できるわよ」って少し照れた感じでやっていたのですが、〈ふだん〉やれることを、敢えて訓練するって大事なんだなと思って見ていました。
Y:そうですね。あれはそういう意味でまさに防災あるいは福祉の境界領域だし、もう一つテレビではどのぐらい描写されてたかちょっと忘れちゃったんですけども、あのバックには子供たちや先生がいて、地元の地域学習とか、それからふるさと教育とか、そういったものとも渾然一体になっているんですね。
 子供たちは概ね高齢者と比べると当然元気で、走れば10m/秒出るとか、普通に5m/秒以上のスピードで移動できるわけです。でも高齢者って、フレイルの基準が秒速1m以上で移動できるかとされていますが、それ以下の方もたくさんいる。そういう方も含めて一つのコミュニティであるということを、子供たちにいくら教室で語ってみても、どれだけ実感が持てるものでしょう。
 歩いたり階段を上ったりということを、自分たちと同じように、いとも簡単にやっちゃう元気なおじいちゃんおばあちゃんもいれば、それが一苦労あるいはもう難しいという人もいる。そういう人も含めて、みんなでいかに避難をするかを考えなくちゃいけないということは、あの場にいるだけで、もう100の言葉を投入するより明らかなわけです。
 そういった意味で、教育・子育て、あるいはコミュニティ作りといったようなことと、防災は一体化しうるし、しなければならない。むしろ一体化させることで、防災も別の分野のお仕事も、よく進むということじゃないでしょうかね。

「情報と体感(現実)のブリッジ」

S:先生のお話しの中で「ああ、そうなんだ」と、もう一つ目からウロコだったのが、これはおもに『防災心理学』の中で書かれていたことですが、「災害情報通の人にとってはあたりまえであるがゆえに、案外見落としている重要なポイント」として、「一般の人が〈まさか〉のときだけ情報を見ても、ただ事ではないことを察することは難しい」という指摘です。
Y:〈ふだん〉は、健康とか福祉とかあるいは教育、経済といった日常の営みが水面から出ているとしたら、防災は比較的水面下にあるような感じだと思うのですが、それと〈まさか〉のときの防災をどうブリッジしておくかということが、ここまでお話ししてきた〈生活防災〉という考え方の中核です。
 それを踏まえて今度は「情報」についての話題なわけですが、そうなんです。これも隠れたキーワードが先のお話と共通していて、〈ふだんとまさか〉なんですね。こうしてお訊ねいただいて、私としても、ここで繋がっているなという発見があった部分です。ありがとうございます。
 情報の重要性ということは、もう100人いれば100人とも主張するところですけれども、とかく〈まさか〉のときの数字だけに注目をする、あるいは〈まさか〉のときだけ、そういった情報を注視するという癖がついてしまっています。
 一方で川の専門家、気象の専門家っていうのは、日常的に数値情報をよく見てるわけです。この川のこの地点の水位はどのぐらいなのか、あるいはこれまでこの地点で降った大雨は24時間雨量で最大どのぐらいなのか、1時間雨量でどのぐらいなのか、72時間でどのくらいなのかっていうことが。頭に入っています。
 ですが一般の人たちはそうしたことを知らないんだということを専門家の方は見逃していることが多いですね。だから、素人つまり一般の方々が、日ごろから川や天気、雨の情報に触れるように誘導していくということが専門家には求められると思います。ちなみに佐藤さんは、ご自分の地元の最大降雨量ってご存じですか?
S:いえ、恥ずかしながら知りません。
Y:そうですよね。たとえば、私も、大阪で24時間に150ミリ降るっていうのがどのぐらいの相場観なのかを正直わかっていなかったです。それと比較して、ご自分の平熱って、だいたい何度ぐらいですか?
S:施設の入口とかで表示されるのは、36,5~6℃のことが多いですね。
Y:私達は、今コロナ禍でしきりに体温を測ることを求められるわけですけれども、人それぞれ、平熱・微熱・高熱という自分にとってのスタンダードみたいなものを持っているはずです。佐藤さんにとっては36℃半ばぐらいが平熱ですが、37℃近い体温が平熱という方もいらっしゃいます。
 自分の平熱を知っているからこそ、例えば37.5℃ぐらいになったとして、それがどのぐらい微妙なのか、寝てるだけでいいのか、医者へ行った方がいいのかっていうのが、わかりますよね。あるいは39℃出たとしても、いやそういうことは過去に3度あったし、大したことはない。いつもの市販薬を飲んだら治るという人もいるでしょうし、これはえらいことだと、本人あるいは周囲の方が思った方がいいこともある。
 それは日ごろのその人の平熱、あるいはちょっと具合が悪かったときの微熱を知っているから判断ができるんですよね。同じようなことが、この大雨に関する情報や河川情報についても言えるということです。
S:人は自分の身について気を配るのと同じぐらい、身の回り(近所の川や土地、気候等)にも気を配ることが、まさに〈ふだん〉と〈まさか〉を繋ぐ〈生活防災〉の一歩ということですね。

その土地にとっての大雨

S:『防災心理学』の中に、「雨量の絶対値より、その土地にとって初めて経験するような大雨の場合、犠牲者数に直結する」という指摘があって、データというものの何か非情なまでの有用性というような感じを持ったのですが。
Y:とりわけこれは私の研究ではなくて、静岡大学の牛山先生っていう方の研究がベースになってますけれど、最近になって多くの犠牲者が豪雨災害で出たポイントを地図でマップ化するというようなことがずいぶん正確に行われるようになってきました。そこで人的被害が出てしまった場所のプロットと大雨が降った場所のプロット地理的位置を重ねると、あんまり合わないんですね。絶対量としてたくさん雨が降ったからといってそこで犠牲者が出ているとは限らない。
 2018年7月の西日本豪雨、気象台的に言うと「平成30年7月豪雨」の事例は有名です。多くの犠牲者が出たのは岡山県とか広島県とか愛媛県で、そのあたりの雨の量は72時間雨量で大体400ミリぐらいでした。ですが気象台が出している豪雨の72時間の降った順のトップテンリストを見ると、岡山、広島、愛媛なんてまるっきり入ってないんですね。入っているのは高知とか徳島とか岐阜も一部入ってるかな。雨自体がたくさん降ったのは、そういった場所でした。1200ミリ以上降ったところもあります。人的被害の多かった岡山、広島、愛媛の3倍以上降ってるんですけど、でも幸い犠牲者は少なかった。
 これじつは、そういうところは72時間で1000ミリぐらいの雨を過去に何度か経験しているんです。つまりそこを流れてる川も森も下水道も72時間で1000ミリの雨に〝降られるという経験〟-妙な言い方ですが-を持ってるわけです。
 ところが岡山、広島、愛媛のあたりっていうのは瀬戸内海に面して、それほど雨の多い土地ではないので、72時間400ミリっていうのは、過去の記録を上回った数字だったんです。過去最高が350だったのに、400っていうと、そこを流れてる川も森も、堤防も、そして下水処理施設も、いわばオーバースペックな状況を初めて経験するということになりました。そういうところで犠牲者が多く出てしまったということなんですね。
S:そうしたことを教訓として、私たちがデータ(情報)に向き合う姿勢というのは、どういったものであるべきなのでしょうか。
Y:私たちが〈ふだん〉何をしておかないといけないかというと、まずは自分の住んでいるあたりで、これまでに降ったことのある24時間・72時間、そして1時間雨量の最高記録。
どのぐらいなんだろうということを予備知識として知っておくこと。そして〈まさか〉のときに、気象台から出てくる情報を見て、それを超えるような雨じゃないか、そこには及ばないんだなというよう判断が出来るようにしておくことが大事だと思います。
S:それが〈生活防災〉における、まず最初のフォームということですね。最後に先生、このメールマガジンは自治体の防災・危機管理や、広報といった情報発信に携わっている担当者の方に主に読まれています。そうした方々へアドバイスをお願いします。
Y:気候変動の影響もあって、これまでの記録を破るような大豪雨という状況が多く出てきています。「これまでに経験したことのない」といった事態において、犠牲者も出ていますというような発信をしていただくこと。また「大雨に気をつけましょう」という注意喚起の一言に加えて、うちのまちでは過去に、24時間だとこのぐらい降ったことがあります、24時間72時間1時間雨量それぞれどんな記録があったのか、そういうことを広報していただくと、非常に良いリスクコミュニケーションになるなと思います。
S:役所が地元ならではの情報を出すことで、私たち住民にとって〈自分事〉化する可能性を高められるということですね。
(以下次号。本文中の太字:事務局)

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